丹乃國蕎麦〜拓朗亭〜


■拓朗亭
〒621-0805
京都府亀岡市安町小屋場77-3
※亀岡宮脇書店様斜め向かいです。
TEL:0771-24-4334
MAIL:
taroutei@news.email.ne.jp
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VOL.13たまには電車で・・・

所用で年末に京都市内に出掛けた。普段なら車で出掛けるのだが、年末と雪の影響もあって必要以上に道路があちこちで渋滞をきたしていた事も在り、久し振りにJRで行く事にした。
その帰り実に懐かしい顔に出逢った。

 

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VOL.12造反議員と明智の故郷

御承知の様に「亀岡」の城主は知将・明智光秀で、その娘は細川ガラシャである。
 明智光秀といえば「敵は本能寺に在り」と織田信長に反旗を翻し、たとえ3日天下と呼ばれようともその座をひッくり返した言わば亀岡レジスタンスの元祖である。
そう、故郷・亀岡は「レジスタンス」の地なのである。

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VOL.009〜 GOOZILLA 〜FINAL WARS

そいつは愛宕山を越えてやって来た。口から恐ろしいまでの火を噴き街を焼き尽くす…40年前に初めて見た『ゴジラ』には日本中の子供達は大同小異でそんな夢を見た覚えが在るはずだ。それくらい彼は威圧感と絶対恐怖を植え付けその後の『ゴジラブーム』へと発展した。途中から地球を侵略しようとする宇宙怪獣を退治する地球防衛軍か正義の味方、はたまたヒーロー扱いとなり、果てはアメリカ版までロードショーされてしまった。いつ頃からであろうか「怪獣映画」としてではなく『映画』として観られる様になったのは。遡ると復活した1983年の「ゴジラ」なのだと思う。荒唐無稽は変わらない。しかし、画像は明らかに変わった。当然時代の変化はその中で反映されているわけであるが、子供ダマシのチャチな破壊シーンはそれなりに観られるまでに成って来た。そう考えると「ゴジラ映画」は単なる怪獣映画と云うのでは無く日本映画のバロメイター的なポジションを担ってきたのでは無かろうか。それ故に彼の足跡がハリウッドに残されたのではなかろうか。とはいえ『ゴジラ』を観るのは久しぶりであった。もちろんGOOZILLA FINAL WARS
と題されたから足を運んだのだ。内容はともあれ「ゴジラ」の最後は見届けておきたかったから。子供達のヒーローから中壮年のノスタルジックさも手伝ったのと、ひとつの『終わり』を責任上見届けてやるべきだと考えたからである…平日の最終上映とあって人影もまばらなのだがなかにはS29年の『ゴジラ』をロードショーで観たであろうそれなりの年輩のカップルからあきらかに『ビオランテ』組と分かる子供連れまでさすがに日本映画の50年を背負ってきただけのことはある。おそらくは万感の思いであっても『ゴジラ』に対して「ありがとう」と礼を言っているように見えた。別にキングギドラが実在し『ゴジラ』によって地球が守られているわけではないのだが、なにかしらそこに感謝の気持ちが存在した。それはそこから未だ小さかったボク達が「映画」の世界に入って行けた事への感謝であるのかも知れなかった。

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VOL.008〜この貴重なる物語〜 

不覚にも落ちて行く涙を停めることが出来はしなかったのは、そのイントロが「あぁそうだった、自分は拓郎に成りたいとは一度も思いはしなかったが、こんな『オヤジ』に成らなければ」と思っていた時代があったと、トリップしてしまったからに他なら無い。『オヤジ斯くあるべし』そこに現れる『オヤジ』たるや人間のクズのような『オヤジ』で在るのにも関わらずそれに固執しその影を追い求めていたのはそれが「人間」そのものであり、或部分ではその存在をも完全否定してしまっていたからに違いないと思う。隣の席でその唄に聴き入る娘は『何』を思っているのであろう。何十年も前、ラジオの小さな箱から彼が語りかけた「オヤジが亡くなりました…」と、かすかに聞こえだした『オヤジの唄』に目頭を熱くしたのは私だけでは在るまい…去年のグランキューブ大阪は綺麗で素晴らしいイベント会場だった。しかし拓郎や我々を育てて来た殿堂ではない。やはり厚生年金会館にもない一種独特のただ事ではない雰囲気がフェスティバルを支配している瞬間。それが今回の隠しテーマ『一体感』と融合された時、会場は総立ちとなり『ウネリ』が出来る。まさに1階席が坩堝であり、その満足そうで幸せそうな観客達にもそれぞれが『人生』をきざんできたのだろうが、それらをかき消すこの『一瞬』が総てで在るかのごとく燃えていた。

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VOL.007〜蕎麦酒房 かしわぎ〜  店主・柏木氏急逝によせて

いつかはそんな時が来る、どんな形であれその時が来る

〜人の命が絶える時が来て、人はなにを思う、
  人の命が産まれる時には、人はただ笑うだけ〜


そんなに深い関わりが在ったわけではない、永い人生からみればどちらかと言えば瞬間的な関わりに近かったのではと思う。しかし、「急逝」の報せを受けた時から何故か虚しいのだ。こころの何処かでその虚しさがデカイ顔をしているのは何故なんだろう・・・

 以前、心斎橋に店が在った頃には何度か訪ねた事が在るのだが島之内に移ってからは遂に行かず仕舞いに成ってしまった。その頃は普通に変った店だったと思う。今と成っては伝説的な話でしかないのだが、何故あれで店が成り立っていたのか不思議で成らない。
 そもそもが「蕎麦屋」を開業する前には「マガジンハウス」の大阪支社のかなりのエライさんであったのだが辞して「蕎麦屋」を開業された。当然、それなりの歳であり伴侶である「おかん」は更に年上の様にお見受けした。
この二人、とにかく至ってノンビリしていた。ある時「天ざる蕎麦」を注文すると柏木氏は何時もの様にちょっとこっちを見やると眼鏡を右手で少し上げ、「時間かかるんですよネェ」と前置きをしてから天麩羅鍋をコンロに掛け火を着けた。のだが、コンロから出るガスの炎はコックを全開にしても燃えると言うには余りにもお粗末な火力で、確かに何時になったら温度が適温に成るのか、いささか不安にさせられてしまった事が在る。

 この店のメインは事も在ろうに「おでん」でこれをつまみに酒をしこたま飲み、仕上げに「蕎麦」をチョイトたぐるのが正当な『しきたり』であった。何時ぞや全く飲まない愚僧の家族三人が「かしわぎ」に行き、事も在ろうに早い時間にこの「おでん」を平らげてしまった。オカンは本当なら「おでんばっかり食べちゃダメなのヨゥ〜」と怒り浸透のはずなのだが、「いいのよぅ、断ればいいんだからぁ」とは言っていたが後の客は間の持たない『酒』を飲まされていたに違い無い。それから行かなく成ってしまった。

 で、この半奇怪なる「そば屋」は今となっては「居酒屋蕎麦屋」と呼ばれる分野の草分け的な存在で在ったわけで島之内に移られてからは全く訪れる機会がないままに閉店となってしまった。愚僧が柏木氏の急逝の知らせを受けたのは随分と後であった。悲しいと云うよりは虚しさだけがイメージされていたのは、後に残された「オカン」の存在が大きなウェイトを占めていたからであろう…「オカン」は演歌よりもジャズな人であったと思う、黙って聞いているとジャズっぽい鼻歌でリズムをとりながら「カマボコ」を切っているのだが決してノリ切れてはいない。どちらかといえば「ノリそこねて」いるのだが、そんな事は知ったコッチャない。その昔にはチャンと合っていたに違いない。だからそれが我々の許容範囲の線上で右往左往しているのだがご本人は至って真面目にやっておられた。そんな「オカン」を柏木氏はいつも右手の人差し指でチョイと眼鏡を上げながら「スイヤセンねぇ」と江戸っ子調にたしなめておられたのを覚えている。更に「オカン」は亀岡だかどこだかの蕎麦屋より「ケンカ」っぱやかったと思う。気に要らないと「もぅー、かえんなさいよぉ〜」とやらかして廻りの「柏木ファミリー」をヒヤヒヤさせていた。これを御本人の柏木氏は怒りもせずたしなめずもせず、例の調子で一言「すいゃせんネェ」と言っておられた。と、言うことは、きっと「オカン」が柏木氏の代弁をしていたのであろう。柏木氏も「もう、けぇ〜ってくれ」と思っていたに違い無い。こんな夫婦も悪くは無いような気がする。

柏木さ〜ん、早く生まれ変わってまた「蕎麦屋」しましょう。

VOL.006〜「 I 」女史に捧ぐ〜

その頃ボクの廻りにいた男共はその女性に皆夢中だった・・・かと言って過激な争奪戦には決して発展することはなく、一種の憧れだけが右往左往して皆が彼女の一言で彼女の喜ぶ顔を見たいが為に動いていたのだと思う。
 ほんの少しだけでも彼女を自分だけの「人」にでもできる物ならばもう、その日1日はずーっとイイ気分で居られた。何よりも側に居るだけで何となく幸せな気分にさせてくれるのが、うれしかった。
 よく散歩にも行った。ちょいと年上で未だヒヨッコの駆け出しだったボク達はその女性から色んな事を教わった。誰もがたった一つの椅子を何時も狙って殺気だってもいたのだろう。 「俺が嫁サンに貰う」 それが、みんなの合い言葉であり、事実誰かがモノにする様な勢いだけは常に満ちあふれていて、そんな中をその女性は平然と、そう、何事も無かった様にすり抜け何時も笑顔で俺達を決してケンカをさせないようにコントロールしていた。遊ばれていた否、遊んでもらっていたんだろうな・・・

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VOL.005〜旧友再会〜

5年振り、高校卒業30周年、恩師古稀祝い同窓会が在った。
懐かしい顔が並ぶ、「あのこ誰や?」どうもはっきりしない。そのあたりに陣取るメンバーから察すれば当時のグループでちょっと眩しい存在の突っ張りっ娘。そう言えば雰囲気は残っている。何年ぶりに見るのだろう?あっ、そうか卒業してから会って無い。後のメンバーはほとんど5年前と見かけは変らないにしても、いやいや、やはり40を越えてからの「5年」は『激動』であろう。
躰と言う物はヨコにだけ拡がる物でも無さそうだ・・・前後左右に押し拡がって、その激動の余波は頭の先まで及ぼされ出している。
みんな、ひと山も二山も越えて来たのだろう・・・。
「孫が出来た」と言うのもチラホラ出だした。48で「おじいちゃん」かい!?
まぁ、しゃあないわなぁ。眼ん中入れても痛くないやろ・・・
けど、老け込むなよ!!

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VOL.005〜会者定離〜  深堂さんに捧ぐ

初めてお会いしたのは9年程も前になりますでしょうか、在阪のライタ−河村氏と御一緒に何かの取材に同行されて来られて否、情報源が深堂さんで河村氏が同行取材だったのでしょうか・・・
 まるで生まれて初めて蕎麦屋の厨房を見た子供の様に食い入る様な目で愚僧の動きを見ておられましたよネ。その好奇心旺盛な少年の様な深堂さんの行動にチョット、いえ、驚いたのではなく、「ボクの食べる蕎麦、まだ出来ませんか?早く食べさせて!」みたいな、どちらかと言えば挙動不審的な焦りを感じた物です。そして深堂さん、貴方が私が打った蕎麦を初めて目の当たりにした時、河村氏に最初に投げかけた言葉を私は昨日の様に今でもハッキリと覚えています。盛られた蒸籠ごと持ち上げて「カワムラ、カワムラさん、い、いやこりゃスゴイですよぅ。ホンモノですよ」って仰られるや一気にずずっ〜とやっちゃいましたよね。
 それから2時間位3人で永い蕎麦談義をしておつき合いが始まったのですよね。とにかく無頼の「麺喰い」で次に現れたのはその3日後でしたっけ?当時の愛車「ワーゲンゴルフ」でしたか(?)独特のエキゾストノートを響かせ「ざる3枚」を一気に平らげると「また来ます」とまるで何かの戦隊ヒーロー物の様に去って行く。そんな事が2、3回続き何時の間にか一緒に蕎麦ツアーにも参加して頂きましたよね。
 愚僧は「藪そば」が苦手なのですが深堂さんは白も黒もみんなまとめて平らげていかれましたっけ・・・ですから深堂さんとツアーを組む時は蕎麦屋のチョイスが圧倒的に楽でしたね。なんせ「この店は挽きぐるみだから」とか「カラを模様にしてるから」と気を使わなくても一向に構わなかったのですから・・・でも後で結構「来てる」蕎麦屋もかなりの数でありましたよネ。
食べっぷりたるや、「生きる為に食べる」のではなく「食べる為に生きる」と言った処でしょうか。蕎麦屋仲間でもその食欲は評判でした。そう言えば手伝って貰ったのは「食べる」事だけではなくて毘沙門堂でのイベントや出張まで厚かましくもなくお願いしましたよね。ホント大助かりでした。
それから深堂さんを通じて色んな蕎麦屋とも知り合いになれましたね。
深堂さんが関西在の蕎麦屋に与えた影響って御本人が思っておられる以上にあったと愚僧は考えています。会社を辞められて仕事を探しておられ何処に落ち着かれるのかと思っていた矢先、「群馬に移住」と言って来られる…
群馬には愚僧が「前橋・大聖堂」と呼んでおります『会席蕎麦・草庵』さんとそのお弟子さんであり「箕郷・礼拝堂」と呼ぶ『せきざわ』さんをはじめとする手強い蕎麦屋がひしめき合っていますね。更には東京都心までも行動半径の中にスッポリと入りますよね。新天地での新しい人生の始まりは少し寂しい「さよなら」の向こう側。そしてまた、新しい「蕎麦屋行脚」がきっと深堂さんを待っている事でしょう。どうかお身体御自愛の上、素晴らしい人生の中盤をお楽しみ下さい。

2004.01.27

 蕎麦食人 深堂sobasenさんへ

VOL.003〜年賀百景2004〜  謹賀新年

技術の進歩が乱筆家の愚僧にどれだけの恩恵を与えてくれているかは計り知れない物が在る。ようやく一般的な価格に落ち着きだした「ワープロ」を手にしたのは1985年の夏であった。
 メモリー機能すら取るに足らない様な機種ではあったがそれなりに活躍して現在のPCに至まで4台を使って来た。内容は御承知の通りIT産業の花形であるから「日進月歩」ならぬ『秒針時歩』と言ったところか。
 ほんの少しの間に出来なかった事がいとも簡単に出来る「ソフト」とそれらの複雑な指令を的確に処理する優秀なOSを搭載させたPCが家電店には処狭しと並べられている。
 その普及につれて年賀状も様変わりをして来たのは事実だろう。「ワープロ印字の年賀状には心がこもっていない」とか「温かみが感じられない」とかの批評は毎年在るかも知れないが考えてみれば『年賀状』そのものの歴史はそんなに古いわけでも無い。
 一般に普及したのが明治頃だろうからせいぜい120年ほどだろう。それを考慮すれば「年賀状」自体に『心』がこもっていない事になりかねない。「心を込めての御挨拶」なら直接赴き丁重に御挨拶を申し上げるのがスジと言うモノだ。と、すれば「手書き」だろうが「ワープロ」だろうがとやかく言う事もあるまい・・・日頃の音信不通や不義理が少しでも埋め合わせられればオンの字だ。3年に1枚ぐらいは宛名書きだけで裏は「真っ白」等と言う差出人すら記されていない、どう理解すれば良いのか判断出来ない物がやってくる。すわ「炙り出し」かと考えたりもするがこの年に成ってそんな酔狂な事もあるまいと捨ておく事に成る。

 さて、今年早々に頂いた年賀状に群馬在の蕎麦屋「せきざわ」さんからの物が在った。
 末文に〜「感動した」と言われる蕎麦が打ちたいな〜と書かれてあるのを拝読し少し恥ずかしく成った。と、言うのも「せきざわ」サンは愚僧がもっとも尊敬している蕎麦屋「会席蕎麦・草庵」(群馬県前橋)さんの一番弟子(か、どうかは定かではないが)で、何回か店にお邪魔をしているが何時も愚僧に何等かの感動を与え続けてくれている貴重な「蕎麦屋」であり、おそらくは日本ではここだけではないかと思うのだが使用するソバを自家栽培で完全自給しておられる何とも空恐ろしい店である。
 予約で「蕎麦会席」もこなしておられ昨年初夏にはお願いして賞味させて頂いた。師の「草庵」サン譲りの天麩羅『花衣』は何度頂いても誰をおつれしても素直な感動を覚えるし、実に美味しい。そんな「せきざわ」サンを持ってしても『「感動した」と言われる蕎麦が打ちたいな』と言われる。
 愚僧ごときが一丁前に「蕎麦屋でござい」等と喜ぶのはまだまだ早いのだと思い知らされた。と言うのが実感だ。
 正月早々から気合いを入れ直さないとイケナイ羽目になってしまった。『よ〜しっ!!』とは思うのだがそこはそれ「手抜き蕎麦」をモットーにする愚店にあっては「らしくない」ここはひとつその向こうを張って、「痛みに耐えてヨク頑張った」と言われる蕎麦を打てる様になろう・・・
 ちょっと古かったか・・・何処かの「玉子」程では無いにしろ・・・

VOL.002〜お裾分け〜  ぽみえサンからの貰いもの

先日、亀岡駅前に在る「パティスリー・ぽみえ」サンから山形産の大きなラフランスを1個頂戴した。同時に大きな柿1個と売り物の「カフェ ショコラ」も頂いたのだが、それはチョット横に置いておこう。問題は前述の「ラフランス」である・・・

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VOL.001〜豊かなる一日〜  肺癌からの復活

喧騒なる日々を抜け出し、日曜日の夕方にも関わらずその会場に足を運ばさせたのには、彼がもしかしたらもう「ステージ」には立てないのでは無いかと言う一抹以上の不安が仕事とそれを秤に掛けるのを辞めさせてしまった事が理由であった。彼がそこに「骨」を埋めるのならば最後のひとかけらは自らの手で、この目にその最後の勇姿をも焼き付けておきたかったし、或いは一つのオトシマエとしてそうすべきだと昔からきめていたから勝手な理由で店を休みそこに行った。

 オーケストラは瞬間的にタイムスリップを我々に与えてくれた。その昔『大阪』は特別だった。彼が言う様に壮絶なる『熱気』と『狂気の沙汰』的要素を常に含みそのコンサートが開催される毎にそれらが膨らみ続けて一つの彼の『ツアー』への参加の型を形成して行った時代が在る。曰く「拓郎コール」「立てノリ」今で言う「ジャンピング」も我々が造り出したとまでは言わないにしてもかなり早い時期にそれらを彼のコンサートに取り入れて来た。言わば熱狂的な「大阪」のもっと詳細に言うならば「フェスティバルホール」の、空間を担って来たと言っても過言では無いし許されるであろう。

 彼は歳を喰った。確かにそうだろう。しかし叉、我々も彼が云う様に歳を喰ったのだ。彼から発せられる言葉がメロディに融合された時、我々は確実に「自由な空間」を手に入れ彼のその息をより身近に感じ、その空気を共有する事で、或いはそこに身を置く事で瞬間的な空間を闊歩していたに過ぎないのかもしれない・・・。
「今日までそして明日から」をオープニングに病み上がりを感じさせないどころかまるで若返った様にちから強く唄いまくる。そんなに飛ばして大丈夫なのか?と、こちらの心配を他所にビッグバンドをバックに気持ち良さそうに「俺は元気だ。まだまだクタバラねーぞ」と聞こえて来る。心配して来たのに逆にまたぞろ元気を貰って帰る羽目なんだろうと途中で気が付く・・・。

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拓朗亭